「なんとかしよう」を手放すためにできること
「なんとかしよう」を手放すために
何かがうまくいかなくなった時、
思うように成果がでない時、
いわゆる逆境の場面というものが、
人生には何度かあったりする。
「なんとかしよう」とすればするほど空回りしたり、
気持ちばっかり焦って、何も行動にうつせなかったり、
非常にもどかしい。
「本当はやりたくないんじゃない?」とか、
「結局、やるかやらないかだ」とか、
そんなこと、わかっちゃいるけど、
この「なんとかしよう」沼にはまると、
身動きがとれなくなってしまうことが苦しい。
どうすれば脱出できるのか?
そもそも、脱出は可能なのか?
「なんとかしよう」の呪縛
「なんとかしよう」沼にはまる時には、
たいてい誰かと自分を比較している。
時には、「こうあるべき」という理想の自分と、今の自分を比較している。
みんなと同じようにできない自分はダメ。
ほんとはもっとできるはずなのに。
甘えてるだけなんじゃないの?
さらに、ダメな自分を感じるのはとても不快なので、
あの人のせいで。あの人がこうだから。
環境がこうだから。
と誰かを批判したりもする。
そうやって過ぎていく時間は虚しくて、また焦る。
執着は手放せるのか?
「なんとかしよう」で悩む人は、これまで色々なことに真正面から向かって、自力で克服しようとしてきた人かもしれない。
だから、うまくいかない時は、「自分の努力が足りないからだ!」と、ぴしぴしムチを入れ、さらに自分を追い込んでしまう。
「なんとかならない」自分を、ただそのままに見ることは、自分のむき出しの弱さに触れることなので、痛い。
「なんとかしよう」はまた、これまでのやり方、これまでの自分への「執着」でもある。
執着は、自分ではなかなか気づけないし、
もし気付いて「手放そう」としても、そう簡単にはいかない。
今まで自分なりに頑張ってきたものだからこそ、
自分の思いや時間、エネルギーを注いできたものからこそ、
手放せない。
手放したら、からっぽになってしまいそうだし、
そのあとどうすればいいのかもわからない。
今よりもっと悪くなるかもしれないし・・・。
そう、執着を手放すって、言葉で言うほど簡単じゃない。
距離をとる
だとしたら、
無理に「自力で頑張る」でも、
無理に「執着を手放す」でもなく、
(↑結局がんばろうとしてるから続かないというジレンマ)
まずはいったん距離をとってみる、というのはどうだろう。
今とは違う環境に身を置いてみるのがいいけれど
実際に動くのが難しければ、イメージの中ででもいい。
「なんとかしよう」としているものを、
ひとつひとつ、付箋に書き込んで、
じーっと眺めてから、
そのことに頑張ろうとしている(もしくは頑張ってきた)自分自身と自分の気持ちを、じっくりと、大事に感じてみる。
それから、その付箋をはがして、
自分が楽だと感じられるところまで付箋を移動し、そっと距離をとってみる。
「なんとかしよう」としていたものと、少し距離をとって向き合ってみると、
今までそれが近過ぎて、自分の動きを止めていたことに気づいたりする。
イメージが難しければ、
カウンセリングという形で、誰かと一緒に向き合ってみるのもいい。
自分に見えている世界からちょっと視点をずらしてみたり、もう一段広い視野を獲得することで、自然に動き出せるようになるかもしれない。
実際のカウンセリングの場面では、「なんとかしよう」の裏側にある、不安や怒り、悲しみや罪悪感を見ていったり、全く別の事柄が自分の動きを止めていることを発見したりもする。
これまで、「ひとりで頑張る」を続けてきた人には、きっとだれかと一緒に作業を進めていく、という経験そのものが、力になることもある。
最後に
「なんとかしよう」に翻弄され、もがいている時期は、
モヤモヤと不快で不安で自己嫌悪な日々だけれど、
これまでとは違う自分に出会うための、
大切な「さなぎ」の時間でもあって、
止まったままに見えるさなぎの体の中では、
成虫になるための準備が進んでいる。
どんな色で、どんな形で世界に生まれ出てくるのか、
わからないからとっても不安だけれど、
何者かになれ、でも
誰かと同じように、でもなく、
さなぎは、自分の色と形で生まれようとしている。
その自分の色と形を、ただそのままに享受するだけ。
「なんとかしよう」としなくても、
心に余白が生まれ、今目の前のことに集中できるようになる。
何より、呼吸が楽でいられる。
その日々の繰り返しが、自然と自分の道になり、その道が誰かの道と交差して、オリジナルな景色が立ち上がってくる。
その景色は、きっとのびやかに、どこまでも広がっている。