『私をくいとめて』感想 ~「外」と出会う~
相方さんに勧められて、映画『私をくいとめて』(2020)の配信を見た。
頭の中で、言葉の風船が飛び交い、大滝詠一の曲がリフレインして天然色に満たされる。
コロナ自粛の中、こんな面白い映画やってたのね。全然知らなかった。
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「おひとりさま」生活を満喫しているのだ!という自分を演出しながら、日常を平和にやり過ごしている31歳の主人公黒田みつ子(のん)。
その日常の裏にある寂しさや、過去のトラウマティックな出来事、男性社会の中で感じる生きづらさ、といったヒリヒリした痛みの自己治癒として、ある日、みつ子は脳内に相談役の「A」というイマジナリーフレンドを誕生させた 。
迷った時には、いつもAが正しい答えをくれる。
Aとの会話によって心のバランスが保たれている。
それがなければ、自分が崩れてしまう。
Aは絶対にみつ子を傷つけない。
だって、Aはみつ子だから。
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他者との深い関わりを避けて、名前を必要としない、一時的な関係性しか信じることができないみつ子。いっけん楽しそうに見えても、生き生きとした感情が失われて、どこか平板で静かなこころ。
あー、なんか知っている。この感じ。
解離が強かった頃の、離人感。
テレビの画面を見ているような世界、存在感の希薄な世界。
表面を滑るだけの日常。
精神科医の小此木先生が、かつて現代人の心理特性として名付けた「シゾイド人間」を思い出した。
「シゾイド人間」は、
①相手を失うことを恐れるあまり、人との深い関わりを避け、自分が傷つかないことを選ぶこと
②他者とのトラブルを避けるために、表面上は相手と調子を合わせ、親しみを示したり、社交的に振る舞ったりするけれど、根っこの部分では相手との関係を避けている「同調的引きこもり」
③自分を失う不安=「のみこまれる不安」、たとえば恋愛で相手に愛されると、相手にとりこまれて、自分の自由が無くなったり、自分の自我をもつことができなくなってしまう不安
の3つを特徴とする。
(小此木啓吾『シゾイド人間 内なる母子関係をさぐる』1984 講談社文庫より要約)
今から40年近く前に出版された本だけれど、この傾向は、もはや現代人にとってはデフォルトの状態にさえなっているのでは?と感じる。
現代社会に適応するために、人はシゾイド人間と化して暮らしていく。
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映画に戻って、、、
みつ子と脳内フレンド「A」との日々に、不意に取引先の営業マンで年下の「多田くん(林遣都)」が現れる。多田くんのぎこちなさや、不思議な距離感が、どこか安心感となって、気になるみつ子。
自分の「内」に籠りながら生きのびてきた彼女にとって、多田くんは「外」の世界の存在。
外に触れたい。でも怖い。
心が開きそうになったり、閉じたりしながら、時に「A」に支えてもらいながら、みつ子の心が外に向けて成長していく。
「感情を形にするんです!」って。
閉じてしまった心は、
信頼したいと思える他者とであった時に、
みずから殻を破る。
そして心は、
信頼できる他者や社会の中で育つ。
映画を見ながら、そんなことを考えた。
最後に、
臼田あさ美さんや片桐はいりさんはじめ、他のキャストの方たちがとても味わい深く、「あまちゃん」ファンには嬉しいサプライズもあって、大九監督やってくれましたな。
あぁ、潮騒のメモリーズ。
原作の綿矢りささんの小説も読んでみよう。
※『私をくいとめて』は、Amazonビデオで配信(2021年5月現在)されています。
プライム会員じゃなくても見られます。