子どもを可愛いと思えないとき
子どもがわずらわしい
「子どもを愛せない自分はおかしいのではないか?」
「どうしてあの子は私を困らせることばかりするのだろう?」
「毎日育児に追われてイライラ!こんなはずじゃなかった」
そのようなお悩みを持っている方は案外多いのではないでしょうか。
親子といえども、相性の合う合わないはありますし、特に心や時間に余裕がない時には、わが子を「かわいくない!」と思ってしまうことは自然なことです。
そんなとき、周りからのサポートもあって何とか乗り越えられると良いですが、自分を激しく責めてしまったり、子どもを思い通りにコントロールしようとする力が強くなると、親子ともども苦しくなってしまいます。
ご相談に来られるような場合には、
すでに子どもさんがひきこもりや不登校で困っていらしたり、
発達の問題で悩んでいたり、
子どもに暴言や、時には手をあげてしまって、罪悪感と自己嫌悪にさいなまれてしまったり。
追い詰められて、どうすることもできない状況のことも多いです。
子どもに対する嫌悪感。
また、
「上の子だけが可愛いと思えない」とか、
「息子は可愛いのに、娘は可愛いと思えない」など、
特定の子どもだけが好きになれないこともあります。
外傷的育ち
では、子どもが可愛いと思えない時、いったい何が起きているのでしょうか。
問題が起きている時には、何か一つのことが原因というわけではなく、いくつかの要素が重なっていると考えられます。
例えば、
子ども側が持っている特性や抱えている悩み、
養育者側のもっている特性や生きづらさ、
夫婦関係の問題(配偶者からのDVや不倫など)、
仕事や日常でのストレス状況、
周産期トラウマ、
経済的な問題、
などです。
特に、大きな要素として考えられることは、
親自身が「外傷的育ち」を抱えている場合です。
「外傷的育ち」とは、精神科医の崔烔仁(チェ・ヒョイン)先生が、ご著書の中で使われていた言葉です。
「子どものころに虐待を受けてきた人,過度な支配や制限,自主性の剥奪や従属の強制,外傷になるような離別や死別など,心の傷,おそらく脳にダメージを受けるような養育体験とその影響」
崔烔仁『メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服』2016 星和書店
見捨てられる恐怖や、感情の爆発もしくは感情の表出が苦手、自己承認欲求へのとらわれなどが特徴で、
自分の「気持ち」がよくわからなかったり、感情を感じることが難しかったりします。
相手の顔色を伺うことには非常に敏感だけれど、相手の心の状態を推測し、相手の目線から物事を見てみることができずらい。
自分の心の中でおきていることが、そのまま現実だと思ってしまう。
つまり、複数の見方で現状をとらえるができない=こころの一部が、まだ子どもの状態なのです。
自分や他者の行動の裏にある心の状態に注意を向け、それを感じたり、心で理解しようとしたりすることを「メンタライジング」といいます。
人が人の心を理解しようとする時に欠かせない能力です。
例えば、
朝出勤して、上司に「おはようございます」と挨拶をしたところ、上司の反応はなかったとします。その時、「私は嫌われているんだ」とか「何か悪いことをしたかな?」と、自分の反応だけにに留まってしまうのが非メンタライジングモード、
「何か急いでいたのかな」とか「どこか調子が悪いのかな」とか、単に「別のことを考えていて気づかなかったのかな」と相手の状態を想像し、複数の見方で検討してみることができることが健康的なメンタライジングモードです。
なにも特別なことではなく、日常で当たり前のようにやっていることなのですが、
強いストレスを受けている時などには、誰でもこの非メンタライジングモードに陥りやすくなります。
この、メンタライズする力の未発達が、
「こどもを可愛いと思えない」原因のひとつであると考えられるのです。
心で心を理解すること
まだ小さい赤ちゃんは、自分の感情を言い表すことができません。
「お腹がすいた」とか、「頭ぶつけた」という時、養育者が「あら、お腹すいたのかな〜」とか、「痛かったね〜」と想像して返してくれる(=ミラーリング)ことで、自分の中で起きている不快な何かが、これはお腹すいたということなんだとか、痛いということなんだ、と、自分の色々な心を理解し、心を育ててていくことができます。
しかし、「外傷的育ち」がある時、このメンタライジング能力が未発達のまま、育っていないことがあります。
そのため、子どもがネガティブな感情を発する時に、「どうしてこの子はこんなにイライラしているんだろう?」とか、「この行動の裏にはどんな気持ちがあるのだろう」と、子どもの心をそのまま汲み取ることができにくく、
逆に、「自分を困らせようとしている」と感じたり、「この子がこんなに泣くのは私が憎いからだ」と、自分が否定され、責められているように受け取ってしまうのです。
その状態が続くと、子ども側もまた、うまくメンタライズされず、自分の気持ちを汲み取って、受け止めてもらえている感覚が得られずに、無力感や否定感といった、苦痛な自己を自分の内側に取り込んでしまいます。
そして、「私なんか生まれてこなければよかった」とか、
「生きる価値がない」とか、
自分で自分を攻撃する状態が生まれてしまうのです。
「熱意」と「愛情」の違い
もうひとつ、メンタライジングがうまく機能していないと、自分や他者への価値をはかる基準として、目に見えるものが重要になってしまいます。
例えば、親子の場合には、子どもへの関心が、勉強での成績のことばかりになってしまったりします。子どもの気持ちよりも、世間体の方が大事になってしまいます。
試験の点数や、学校のランク、名のしれた大企業に就職できるか、など、学歴や容姿といったものでしか、子どもを見れなくなてしまうのです。
「100点を取るのが当たり前で、95点でも間違えた部分を責められた」というのはよく聞く話しです。
『愛着障害』シリーズで有名な精神科医の岡田尊司さんは、このことを
「熱意」を「愛情」だと勘違いする親
と表現されました。
なかなか痛い言葉です・・・。
それは、本来の愛情というよりも、熱意といった方がいいだろう。教育熱というべきものに親もとらわれ、それに熱中することで、子どものために頑張っているような気持ちを味わうのである。ー(中略)ー ただ、それは無条件にその子を受け止め、共感し、肯定する愛情とは決定的に異なっている。子どもが努力しても目標を達成できなくなったり、もうその努力自体を放棄してしまうようになったとき、・・・・・・わが子を「失敗した存在」としか見ることができず、心の中で見捨ててしまうということになってしまいやすいのだ。
岡田 2019/09/25 PREWSIDENTT Online 子供に「早く死ねばいいのに」と思う母親の理屈
学歴や容姿のような目に見えるものだと、目的がはっきりしていて、相手を評価したりコントロールしやすいからです。(これを、メンタライゼーション療法では「目的論モード」と言います)
岡田さんは、「母親の理屈」としましたが、もちろん父親にも当てはまります。
自分自身が、「親に愛されなかった」という思いが強いほど、
また、目にみえる価値の中でしか評価されなかったという思いが強いほど、
「自分で自分を愛さなければ」という思いと、「子どもを愛さなければ」という思いが強くなって、より目に見える成功を無意識に子どもに押し付けてしまいます。
すると、子どももまた、「○○ができれば愛される」といった、条件付きの愛情の中でしか生きられません。
外の世界は自分を脅かすもので満ちていて危険だと感じるので、分離不安を超えることができなくて、親から巣立つことができません。
もつれた関係を回復させるために
「子どもを可愛いと思えない」という時、
親からみると、子どもには何らかの問題がありそうに見え、一方、子どもの立場で考えてみると、親の側にも何らかの問題があるように見えます。
「あの子とは性格が合わない」と、理解できない相手として煩わしく思ってしまいます。
この時に大事なのは、誰かを悪者にすることではありません。
ではどうすればよいのでしょうか。
もし、これまで見てきたように「外傷的育ち」が関係しているとしたら、誰かと「新たな愛着関係」を構築すること。
つまりメンタライジング能力を育んでいくことが重要なプロセスになります。
「幼少期に外傷育ちの中にあったためにメンタライズ力がうまく育たなかったからといって、それを一生抱えていかなければいけないわけではありません。メンタライズ力はいつでも育つのです」
(前掲書)『メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服』
メンタライズする力は、信頼できる他者とのやりとりの中で、行きつ戻りつしながら、ゆっくりと育っていきます。
すると、それまでまだ子どもの目線でしか見えなかった世界が、だんだんと小学生になり、中学生になり、そしてある日、大人の目の高さから世界をみわたせている自分に気づくのです。