「自分探しのゴール」はあるのか?
「自分」という感覚が持てないと、自分探しをしてしまう。
安心していられる「居場所」がない。
ここでの「居場所」とは、現実的な家とか家族というよりも、自分の内部での「私」を支える土台のようなもののこと。
私が私であるという、「つながりを持った私」を支えるための基盤。
ちょっとイメージして欲しい。
今立っている(もしくは座っている)場所の下にある地面が、突然ストンと落ちてなくなってしまったら、どんな気持ちになるだろう?
きっと、恐怖だ。
「居場所がない」と感じている人は、そんな地面がない恐怖や不安をずっと心の底に潜ませている。
そのために、まとまりを持って安定した自己像が形成されにくい。
「私」に安住できないから、強迫的に刺激を求めてしまったり、対人関係に固執してしまったりする。
いつも他者の視線(眼差し)が気になって怯えていたり、
自己防衛の過剰さから、周りの人には強い人と思われて、
まわりの人との安定した関係が築けずに、孤独の中で傷ついている。
そして、長い自分探しの旅にでる。
例えば、
自分を支えてくれる確かなものを手に入れたくて、
世間をねじ伏せるための行動に出たり、
強いものに依存してしまったりする。
この自分探しの旅に終わりはあるのだろうか?
「ここがゴールだ!」と言える場所があるのかはわからない。
でも、
誰かが決めた目的地に向かって、「早く早く!」とせかされながら進む旅から、
自分で地図を広げ、ハンドルを握り、道程そのものを楽しめるような旅ならできるようになるかもしれない。
恐怖からの過剰な防御だけではなく、偶然の出会いにも身をゆだねることのできる人生。
そのときに必要なのは、自分の中に「私」が立つことのできる大地を作ること。
精神科医の柴山雅俊さんが、『解離の舞台』という本の中でこんな言葉を書かれていた。
(以下引用)
安定した自己像の形成には、幼少期の「安心していられる場所」や「愛着対象からの受容的な眼差し」が少なくとも必要であろう。場所や眼差しは当初、他者によって受動的に与えられるものであるが、いずれ「私」は自らのなかにこうした場所と眼差しを持つようになることが望ましいであろう。眼差しと場所は、移りゆく心的現象の背後にあって、不変性、連続性、同一性を持った「私」を支える機能を果たしている。(p.271)
ちょっと難しい言葉だけれど、短くまとめると、「安心していられる場所と他者からの眼差し」が、自分の内側に内面化された時に、「私」を支える機能を果たすということ。
つまり、自分の中に「私」を支える土台(基盤)ができるということだ。
自分探しのゴールは、「ここではないどこか」でも、「価値ある私」でもない。
自分の内側を映し出す鏡の役割を果たしてくれるような誰か(大人)との関係性を通して、
自分の内側に、「私」の居場所をつくることなのだ。
■引用文献
柴山雅俊(2017)『解離の舞台 症状構造と治療』金剛出版