人と違うということが苦しい時
例えば、
人と同じように行動できないとか、
動きがぎこちなくなってしまうとか、
手や足が動かないとか、
目に見える障害があるとか、
心と体の性別が違うとか、
目には見えない障害があるとか、
他の人にはわからない何かが
見えたり聞こえたりしてしまうとか、
障害をもつ兄弟の後ろで、
隠れて見えなくなっているとか、、、。
そんな人は、
人からの視線にさらされたり、
時には悪意にさらされたり、
逆に、いない存在になっていたり、
居場所のなさを感じる機会が多かったはずだ。
自分を隠さなければならず、
自分に嘘をつかなければならず、
どの集団にいてもなじめず、
何度も心をえぐられるような
痛みを味わってきたことだろう。
その苦しさを訴えて、
「わかるよ」という共感や、
「人はみんな違うんだよ」という言葉をもらった時、
相手の発した言葉の軽さや重さ、エネルギーを
瞬時に嗅ぎ分けてしまうクセから、
余計に傷つくこともあったかもしれない。
でももう、
痛みの中にい続けることから、
抜け出したいと決めたら、
まずは自分の内側にむかって、
こう伝えてあげて欲しい。
「わたしはここにいるよ」
なんども、なんども、
自分自身の心の深くに届くように。
「わたしはここにいるよ」って。
その一方で、人と違うことで悩む人は知っている。
不自由だから見えてくる世界を、
不自由だからこその自由を、
こっそりと知っている。
それは同時に、優越感をもたらす。
劣等感と裏返しのそれは、
かえって孤独を強めてしまうけど。
どこかで気づいて、
飽き飽きしているのに、
なかなか手放すことができない。
でも、もうそろそろ、
こころを開いて、自分の力を発揮して
生きていきたいと思い始めたのなら、
自分自身の中にも、
確かな存在の意味があることを、
ひとつひとつ、外に出て、
確かめていくことが必要になってくる。
これまで、「どうせ・・・」と、
閉じて飲み込んできた言葉の中に、
行き詰まった社会のシステムを突破する、
カギのひとつが入っていることを、
自分の表現や行動が、
誰かや何かに貢献していくことを、
そして、何ら特別ではない、
ちっぽけな等身大の自分を、
自分自身で確かめていくのだ。
そうすることで、
新たな自分の輪郭を発見していくことができる。
その努力は、
批判や卑下の毎日より、
ずっと楽しい。
最初は少し勇気がいるけど、
表現への絶望と、嫌悪を手放して、
自分に見えている世界を、
ひとつひとつ発信していけばいい。
そのときは、
今度こそ外に向かって、
「わたしはここにいるよ」って。
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