「親をあきらめると楽になる」のか?~排除したものは力をもつ~
親をあきらめるのは案外と難しい
生きづらさを感じている方の中に、
“親との精神的な距離が取れない”という人がいる。
親の言動にとにかくイライラしたり、
親から電話やLINEが毎日のように来たり、
お金の無心が続いたり。
親からの支配や依存から抜け出せず、
苦しい親子関係が続いている。
20代から60代まで、年齢は関係ない。
実家を出て、空間的な距離はとれていても、
結婚して、自分の家族ができたとしても、関係ない。
精神的に翻弄される。
もう、親をあきらめて、自分の人生を生きたいと願う。
親をあきらめられたら、どんなに楽だろう。
本を読んだり、セラピーを受けたりして、
なんとか自力で自分を癒そうと試行錯誤してきた方もいる。
ところが、いざ「親をあきらめよう」とすると、
そんなに簡単ではないことに気づかされる。
なぜ親をあきらめることは難しいのか
子ども時代に、ほどよく愛されて、満たされる経験をすると、
成長する中で、「親もまたひとりの不完全な人間である」ことを受け入れやすくなる。
自分の内側に安心と信頼が育つ。
ところが、親の支配や干渉が強かったり、溺愛されたり、緊張感の強い雰囲気の中で育つと、大人になっても親を求める気持ちが続いてしまう。
安心と信頼を外側に求め続ける。
いざ親から離れようとしても、
親を裏切ってしまったかのような罪悪感を感じてしまったり、
親が泣いてあやまり、悔やむことを期待し続けて、
離れられない。
「親をあきらめられない」とは、
満たされなかった心の一部が、大人へと成長できずに、
小さな子どもの目線で親を見て親に期待している状態で、
「理想の親」を求め続け、裏切られ、傷つく。
家族として手に入れたかったものへの執着は、強く、苦しい。
自分の人生をあきらめる方が楽だったりするくらいに。
幸せそうなカップルや家族を見ると殺意が湧いたりするくらいに。
「親をあきらめる」って、頭では理解していても、心と体で理解するのが難しいのだ。
“精神的な孤独”というむなしさ
親の愚痴の聞き役だったり、何をやっても褒めてもらえなかったり、親が精神的不安定な状態にあると、いつも親の気持ちが優先され、
子どもは、自分の気持ちや感情をただそのままに受け止められる十分な経験がないと、自らの存在を“恥”と感じるようになる。
そして、
「自分は誰からも好かれない」
「できる自分でなければ価値がない」
といった信念を持ちやすくなってしまう。
求めれば求めるほど傷ついた経験は、人との親密な関係を築くことを難しくして、“精神的な孤独“というむなしさが募る。
アダルトチルドレンという言葉に出会い、これは家族の問題だったのだと気づいても、
自分の望むような愛をもらえなかったという、絶望的な気持ちの行き場がなく、
何をしたいのかわからず、何をやってもうまくいかない現実に、ただただ、自分を責めながら途方に暮れる。
「親をあきらめる」とは、どういうことか?
私が提供しているコンステレーションの考え方の中には、「排除したものは力をもつ」というものがある。
例えば、「あるべき自分」の理想が高すぎる人は、等身大の、弱さや未熟な部分をもつ自分を受容できずに、自己否定の呪文を自分に向けて繰り返してしまう。
自身の一部である、「できない自分」、「足りない自分」を排除しようとしてしまうことで、日々「嫌いな自分」と戦うことになる。
つまり、逆に自分に囚われてしまう。
「親をあきらめる」ひとつの方法として、
満たされなかった傷つきの中で暗に親を責め続けたり、いないものとするのではなく、
「親をあきらめ」なければならないほどの”関係性”の痛みや傷つき、絶望感を、ただそのままに感じ、失ったものを、嘆き、悲しむこと。
親を許せなければ、まずはその「親を許せない自分」を許してみる。
自分自身の痛みを、自分の両手でしっかりとホールドしてあげる。
※ただし、特性によって、傷ついた体験を長く引きずりやすい場合もあるし、こころの状態によっては、感情に触れることはよくない時もあるので、無理は禁物。きつい状況の場合には、心理士に相談してみてほしい。
「親をあきらめる」行程は一筋縄ではいかないけれど、自分自身の心を受容する道のりの中で、子どもの目線から、少しずつ見える世界が広がっていく。
ひとつひとつ戦いを手放して、親との関係が自分の運命にはまった時、
まるで憑きものが落ちたように、囚われから解放されて、ほんとうに楽になる。
そして、ようやく自分の人生を歩き出せる時がやってくる。